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【アラベスク】  第4章 男ゴコロ



第2節 銀梅花の香り [4]




 良い香りですね

 製品には、銀梅花と書いて"ミルト"という文字が振られている。
 後で図書館で調べ、ミルトともマートルとも呼ばれていることを知った。花が梅に似ているからこのような和名がついたとか。
 似ているのは、見栄えだけのようだ。香りは梅とは違う。
 ユーカリのような香りがすると紹介している本もあったが、ユーカリ自体がどのような香りなのか知らない。だから同意も否定もできない。葉に強い香りがあるらしいが、あの時は少し離れていたからだろうか? それほど強烈な香りだとは思わなかった。
 何と表現すればよいのだろう?
 夏の夜に漂う爽やかな、そして少しだけ甘い香り。
 霞流の家に漂っていた香りは"甘い"と感じたが、シャンプーは清涼感を重視しているようだ。実際の香りとは少しズレているようにも思える。
 だが、このシャンプーを使うたび、あの日あの時の情景が思い出される。
 目を閉じれば、その時間が再び戻ってくるような気がする。

 ―――― なぜ自分は、あの時を思い出したいのだろう?

 椅子に腰掛けた美鶴の傍で身を屈め、庭で揺れる小さな花を指差す――――

 ひどく胸が締め付けられ、だがそれでもこのシャンプーを使ってしまう自分に混乱しながら、頭を振る。
 こんな時に何考えてるんだっ 霞流さんなんて、今は関係ないだろうっ!
 それよりも、せっかくここまで来たんだ。なんとか潜り込めないだろうか? せめてどこかの扉の鍵でも開いていれば………
 しかし、校舎に扉は多い。その一つ一つを、この煌々(こうこう)と灯りで照らされた中で探していくのは至難の業だ。例え一ヶ所、鍵の掛け忘れがあったとして、それを見つける前に夜が明けてしまう。
 やっぱり―――
 諦めかけた時だった。
 ………………
 誰の発した言葉だったのかは、覚えてもいない。本当かも分からない。だが―――――
 ここまで来たんだ。試してみるか。
 美鶴は腰を浮かせ、だが身を低くしたまま移動した。向かうは北校舎。
 東西に長い校舎の西の端。もう長いこと閉ざされた扉。確か、西日が激しく使い道も少ないということで、やがて開けられなくなったと聞く。掛けられた南京錠のくすんだ色が、扉の存在の無意味さを物語っている。
 ――――― 南京錠
 以前聞いたことがある。南京錠は、強く叩けば外れることもある――― と
 まさかっ それでは鍵の意味がないではないかっ
 だが、故に本当に防犯を考えるなら、南京錠は使うべきではない――― とも言っていた。所詮は"鍵が掛かっている"と思わせるためのモノなのだと。
 真偽は知らない。どこをどう叩けばよいのかもわからない。
 しかし今の美鶴には、他に手もない。無いと、思われる。
 これがダメなら帰る他あるまい。
 いくら金のある私立とはいえ、敷地のすべてを照らしつくすことなどできない。校庭や要所と思われる場所が異様に明るかっただけに、照らされていない場所がひどく暗く感じる。
 夜とは本来、暗いはずのものなのに―――――
 暗闇の中で鈍い色を放つ錠を手に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 そうして、右手を振り上げる。
 ガッ
 だが、鍵が外れた形跡はない。
 手近にあった石を手にとり、再度叩く。
 だが無意味。
 やはり無理か。
 諦め気味にもう一度。

 ――――― カチッ

「うそっ」
 思わず声を漏らし、その後しばらく絶句する。
 本当に外れてしまった南京錠。







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